天平宝字7年(763)豊前宇佐八幡宮から分霊勧請して創建といい、妻鹿の魚人久津里の網に「八幡」と書かれた一尺ばかりの霊木を海中から拾い上げたという。
息長足比売命・品陀和気命・比咩大神の三神を祀り旧県社。
平安時代に石清水八幡宮領松原壮の総鎮守となり、鎌倉時代には八幡大菩薩垂迹の地として崇敬を集め、一遍上人の参詣も知られる。
南北朝鮮時代の『峯相記』には「社頭繁盛し」「神事祭礼厳重」と記すが、戦国時代に至って度々の戦乱被害にあい、天正12年(1584)社頭再建を伝える。
現社殿は享保3年(1718)楼門は延宝7年(1679)の造営という。
社頭は羽柴秀吉の社地移転命令を拒否して六十石に削減されたといい、この六十石が江戸時代を通じて朱印地として安堵された。
明治に至って姫路藩好古堂教授だった亀山雲平が宮司となり、私塾久敬舎ついで観海講堂を設立して住人の教育にあたり、播磨一円から門人が集まったという。
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・息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后
・品陀和気命(ほむだわけのみこと)=応神天皇
・比咩大神(ひめおおかみ)=神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
八幡神
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現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。
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