備忘録

松原西地蔵堂

昭和55年に地蔵さんの歴史を調べたとされる書類を見つけた。今から40年前になります。以下はそれを写したものである。

白浜町西区協議会が大西之丁に調査依頼をしたようです。

松原西地蔵堂

1. 住所地

  姫路市白浜町字大西甲725

2. 縁起

① 記録は見当たらないが、古老からの言い伝えによると「流れ地蔵」とも「網引き地蔵」とも呼ばれるが「西の地蔵さん」が一般的な呼び名である。

② 昔この地蔵尊は当地前の海岸(六兵衛あたりか)に流れ着いた(?)のを網で引いて来て現在の場所に安置したことから前途の呼び名があると言う。

③ 地蔵は持地菩薩で「地」を司るとされることから松原の西端の道しるべとして また通行人の安全を祈願してここに祀られたものであることの説がある。

④ また一説によれば「海山」の頂上にはその昔「八正寺」の道場があって、この道場の道しるべだとも言われる。

⑤ 本体は約300年前のものと思われる。(後述3.地蔵菩薩本体の項参照)

⑥ 当初に安置されてから少なくとも150年を経過していることは確実であり、地元の地蔵講(現在戸数43戸)により、連綿として祭祈さてれてきたものである。なお松原村より祭費の一部を献納した時期もあった。(後述6.参考事項参照)

3. 地蔵菩薩本体

① いずみ石(関東方面?)を使用。

② 彫刻方式に時代を推定するに足るだけの特徴はないが、風化の程度からして江戸時代、元禄年間のものと思われる。(約290年前)石仏は鎌倉時代以降でそれ以前は木造である。(注、元禄元年は1688年に当たる)

4. 蓮座

① 御影石まがいの石を使用。

② 工具の使用にやや近代的なものの跡が見られることから本体より新しいものである。

③昔 棺をすえる台に使用されたものではないかと推測されるふしがある。

5. 礎石

① 犬島(愛媛県)の赤石を使用。

② 蓮座より新しい工法がみられる。

注、以上3体に材質及び工法に相違点がみられることからして同時調製のものではなく随時補足したものと思われる。

6. 参考事項

① 地蔵堂の前に墓がある。(宝殿石を使用)当地出身の赤西七三郎氏が日本廻国(行者として)の記念として建立したものの由である。この側面に天保15甲辰年3月吉日の銘がある。(136年前)この墓を建てた時には既に地蔵堂はあった。

注、天保15年、弘化元年は1844年に当る。

② 献灯の石灯篭

  東  日本紙軸燐寸株式会社

  西  神戸善之助、炭本豊次

③ 石玉垣

  正面(大)  岸本総右衛門、炭本長太夫

  その他の玉垣で古い人と思われる人名  塩崎宗五郎、岩見太三郎、常磐四郎三郎、材木善作、福本太左衛門、藤沢沢次郎、藤井梶五郎、梶権三郎、その他

④ 玉垣は最初は木造のものであったが、大正初期石造のものに変える際「石棺さん」(岩見、藤沢の裏あたりにあったもので現在堂はない)に移転したものである。

⑤ 昭和6年、現国道250号線新設のため講中を分断された形となり、交通量の増加などにより祭りも往年の面影を偲ぶ縁もなくなったが、昔は沿道に夜店数十を数え一大風物として夏を彩ったと伝えられる。

⑥ その時期も名も不詳であるが、高名の僧が遍路の際等地蔵に参詣し作ったと伝えられる御詠歌が次のものである。

   ただ頼め 萬世の罪は 深くとも 救いもらさぬ ここに松原

以上の通りお地蔵さんに関係の深い私等が調べ話し合った内容をまとめました。

昭和55年8月

   木本清治、松井一男、山崎松之助、岩見岩一、駒井利夫、塩崎実好、田中義信、福永日出男、藤沢しん、金沢千代子

調査依頼  白浜町西区協議会

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